ティアちゃんといっしょ
Novels
"Let's laugh with Tia"
Presented By Shunjyu_Kato


ティアちゃんといっしょ外伝

ティアちゃんのお正月



0.きゃらくたーいんとろだくしょん


ティアリスティリール・プリメ・アデンフォルク
 物語のヒロイン。ガディレイク帝国第十七皇女。クルニト領主。
 ティアリスティリールは、ティアリスの血統という意味。プリメは皇位継承権の低い皇女を指し、アデンフォルクは王朝名を表している。大層な名称だが、物語中では主にティアと略される。

ここみい
 ティアの乗龍。無翼の青龍である。
 ここみい、は特に意味のない音の連なり。ミィルフィの血統の仔龍だったことから、ティアがそう命名した。ここ=子供。みい=ミィルフィ。と推測される。ちなみにここみいの母龍はティアから「ままみぃ」と呼ばれていた。
 本来、ミィルフィの血を伝える龍は翼龍のはずだが、ここみいは例外らしい。

エムラブサレル・プレム・アデンフォルク
 ティアの叔父にして保護者。クルニト領の領主代行。三十二歳独身。
 エムラブサレルは、保護する楯という意味。プレムは執政や宰相など、支配者に代わって政治を司る役職を指し、アデンフォルクは王朝名を表している。大層な名称だが、物語中では主にエムラブ、或いはエムラブサレルと略される。

レンディーン
 エムラブサレルの乗龍。有翼の赤龍である。
 レンディーンは、立ち上る陽炎というふうな意味。卵時代からその身を覆った熱気により、その名を冠された、らしい。
 ここみいとは親戚筋に当たる、王家の龍である。

ラスティーナ
 クルニト領城付きの宮女。
 特に登場するわけではないが、賑やかしのためわざわざ人物紹介に出したもの。
 ゆえ、名字や役職名などは一切考えられていなかったりする(笑)





1.くりーにんぐ。


 年末。日めくり暦の一番最後の一枚。
 それまでに忙しかった人は、まあそれなりに一つや二つの後片付けなどをこなし、そうでなかった人は一年の埃と年明け準備のため、額に汗する日。
 ガデュレイク帝国の辺境領クルーレに住まう第十七皇女にして女領主、ティアリスティリール・プリメ・アデンフォルクは、寒さの厳しいその期間をこよなく愛していた。活発、というよりむしろ運動馬鹿という形容の方が的確なティア・プリメをご存じの方なら、大体見当は付いているだろうが、季節感や雰囲気といった情緒的なものでは、勿論ない。
 お城の清掃や年越しの準備に追われて城中の者が駆り出され、退屈な家庭教師の口上から逃れられるのが、彼女にとってかなり上位の幸せであるらしかった。それほど裕福でない、平たく言ってしまえば貧乏領たるクルニトでは、女領主とて一働き手に過ぎず、宮女や下男と同じように買い出しや掃除などを手伝わなければならないのであるが、それらは全て「躰を動かすこと」だから、平気であるらしい。
 だから、本年の年末も、ティアはたいそう朗らかな気持ちで床のモップがけに勤しんでいたのである。住居宮殿を一巡りできるよう拵えられてある廊下の掃除であった。一周二百メートルほどの回廊である。
 鮮やかな紅玉色の瞳に艶やかな同色の髪。すらりとしたボーイッシュな肢体を薄手の白ブラウスと革製のベスト、ふわりとした濃茶のパンツに包んでいた。ブラウスの袖は肘辺り、パンツの方は膝近くまで、無造作にまくり上げられており、傍目には寒くてしようがない。しかし本人は至って平気らしく、鼻歌混じりに領宮の床を駆けている。
 「む」
 背後に気配を感じたティアは、脚を止めた。
 白い息を吐く彼女の隣を、ついーっ、と滑り行く大きな影。
 「ぐぐう、ぐうぐう」
 機嫌良く歌めいた鳴声なんぞを発しているそれは、全長八尺程の龍であった。
 名前はここみい。ぎょろりとした大きい目にティアが写っている。頭部に一本角が突き出ていた。見事な青色の鱗をきらめかせ、四本の脚で床を滑っていく。よく見ると、それぞれの足裏に分厚い雑巾が縛り付けてあった。
 ”先に行っちゃうよう”
 ティアの脳裏に声。龍の発する「念話」である。この技術により、龍と人間は意志を通じ合わせることができ、相互に協力しあいながら現在の繁栄を築いていったのだ。
 ”負けた方がバケツのお水を換えるって、ティアちゃん言ったよね”
 すいすい。
 ここみいは通路を曲がって見えなくなる。ティアはモップを見下ろして、うぬう、と低く唸った。柄を握り直す。息を大きく吸った。
 「まてー、ここみいっ!」
 駆け出す。
 モップの水が盛大に跳ね飛び、辺りに撒き散らかった。汚水などものともせず、ティアは全速力で疾駆する。もはや廊下掃除とは程遠い世界であった。
 余裕で背後を顧みたここみいの顔が、凍りつく。鱗色が一層青みを増した。
 「ぐ、ぐぐうっ!」
 しゃかしゃかと四本の脚をせわしなく動かす。人間であったなら、大粒の汗が額を覆い尽くしていてもおかしくはない、決死の表情である。
 追いつかれたら絶対ぐーぱんちされる。
 理屈ではなく経験が、ティアの形相からそれを教えてくれた。ので、とりあえず反射的に逃走を試みたのである。そうなった彼女にはどんな説得も通じないことを、彼龍は知っていた。そうなると、ここみいとしてはティアが疲れるか(これはありそうにない)、あるいは思考が他に向く(これは充分期待できる)まで、とにかく逃げ回るしかなかった。
 こうなるともう掃除だか競争だか解らない。
 一人と一匹は、大して広くもない城中を縦横無尽に駆け回り、結果として他の甲斐甲斐しく働く者達の仕事を三割がた増加させたのだった。
 勿論、最後に追いつかれたここみいがぐーで殴られたのは、言うまでもない。



 「こほん」
 汗と汚れと(ここみいは涙と鼻水も付加しておこう)で見る影もなくなった一人と一頭を睨み据え、領主の叔父にして後見人たるエムラブサレルは空咳をした。眉間に深皺が寄っている。大剣の似合うごつい手で、強い顎髭を撫でさすった。背後では、執事を印象させる彼の副官が畏まって控えている。
 惨々たる情景の回廊。飾られてあるはずの花々は床に散らばり、花瓶は跡形もない。凛々しい彫像の鼻は欠け、大理石張りでぴかぴかなはずの床は、泥水と足跡にまみれていた。
 「えー、我が愛しき姪っ子よ」
 声は、ちっとも愛しそうに聞こえない。少なくとも七割以上の要素が「怒り」だろう。
 「一つ質問があるのだが、良いかな?」
 ティアはここみいと目を合わせてから、慎重に頷いた。
 「ひとつくらいなら」
 それはよかった。とエムラブサレルは髭に当てていた手を腰に回す。腰に提げた剣が軽い音をたてた。
 「愛しき姪っ子殿は、掃除、という言葉の意味をご存じかな?」
 なぁーんだ。という表情でティアは微笑む。自慢気に胸を張ってみせたりした。
 「汚れているところをきれーにすること、だ」
 ”ティアちゃん、叔父さんもそれは解ってるんじゃないかなあ”
 ここみいが突っ込む。
 ”う? だってエムラブはそうきーたじゃないか”
 ”そ、それはそうだけど…”
 当然ながら、「念話」によるやりとりは第三者に伝わらない。あくまでティアとここみい間におけるもので、たとえエムラブサレル領主代行がレンディーンという立派な赤龍と意志を通じ合えても、ここみいとティアの念話は傍受できないのである。ただし、龍のほうは人語を解することができるため、一方的なコミュニケーションならエムラブも試みることができる。
 …ので、とりあえず後見人は吼えた。
 「ごあっ!!!」
 びくり、と一人&一頭が背筋を伸ばして領主後見人へ向き直る。由緒あるガデュレイク帝国第十七王女は、巧みな弁論や洗練された技巧より、シンプル且つ原始的な一喝の方が効果的であることを、育て親でもある後見人は経験で存じていた。
 誰がそのように乱雑な性格にしたのか? 直立不動で微動たりしない一人と一頭を眺めつつ、エムラブサレルは嘆息する。しかし、育ての親が彼である以上、原因の自ずと明らかなことには、どうやら気付いていないようだった。
 こほん。軽くハイソサエティ気味な咳払いなんぞを試みる。顎髭の先っちょを摘んで形を整えた。
 「掃除とは、即ち汚れているところをきれーにすること」
 「綺麗」をティア口調で発音する。
 「よろしい。正解だ。なら、現状は、掃除をした後に相応しい情景なのかね?」
 ふわり、と優雅な手捌きで惨状を示した。科白を付け加える。
 「十八文字以内で簡潔に答えたまえ」
 ティアは苦虫を噛み潰したような顔で、紅玉の瞳をここみいへ向けた。
 ”さんすー、苦手なんだよな”
 ここみいはティアよりもっと困った顔で、ぐう、と頼りなく鳴いた。
 ”…算数じゃないと思うんだけど”
 ”いーから、答を考えるんだ、ここみいっ!”
 ここみいは、ちらり、とエムラブサレルの方を見て、それから頭を垂れた。ぺたり、と床にお尻を落として座り込む。
 ”ええと…”
 前脚を持ち上げた。指かどうかも判らない小さな突起を器用に折り曲げる。
 「…ここみいは手伝わないこと」
 ぴしり。領主に釘を刺され、ここみいが前脚を床に降ろす。
 ”だってさ。ティアちゃん”
 「うぬぬー」
 龍たるここみいより余程獣じみた唸り声をあげると、ティアは両手を目前へ差し出した。
 「そ・う・じ・じゃ・な・い・と・お・も・い・ま・す」
 十二回、指を折ったり伸ばしたり。少し考えた後、勝ち誇った顔で更に二つ指を折り曲げた。
 「てぃ・あ」
 どうだ、と言わんばかりの笑顔。 
 今までの学術教師は、一体何をやっていたのだ? 言葉にならない脱力感を堪えつつ、なんとかエムラブサレルは拍手した。
 「では、親愛なる姪っ子とここみいは、掃除をやっていなかったことになるわけだ?」
 こくり、と頷いた後、流石のティアもばつの悪そうな顔をしてみせる。
 この隙を見逃してはいけない! ティアちゃんと百戦しその傾向を知り尽くしている策士エムラブサレルは大仰な仕草で両手を開いた。
 「そう、姪っ子よ。君は悪いことをした。そうだ。掃除をしなかっただけでなく、更に汚してしまったのだ。その結果、これからゆっくり年明けを迎えようとするお城の使用人達に多大なる迷惑をかけてしまっている」
 「むー」
 理解はいくけれど、感情的にいまいち納得していない返事。後見人は更に声を張り上げた。
 怒りではなく、悲痛なトーンで。
 「ああ、姪っ子よ、君は考えたことがあるかね? 宮女のラスティーナには、お父様とお母様がいらっしゃることを。そうしてこの時期に帰る娘を、待ち侘びていることを」
 自分をかき抱く。顎を上げて軽く天を仰いでみせた。激しく瞬きして眼球を潤ませる。
 「むむー」
 姪っ子の眉間がほんの少し情けない色を帯びていた。後もう一押しである。
 「それが今年はこの後始末のせいで帰れなくなってしまう。家族で年越しを迎えるべく用意された鳥の丸焼きを見つめながら、味気ないパンをしがんでいる二人ぽっち。そして冷たいバケツの水を絞りながら、暖かい家族を思い涙する宮女。お父様、お母様はどれほど悲しむだろう? この寒い中家族とも会えず、たった独りで掃除する宮女ラスティーナは、胸も張り裂けんばかりじゃないだろうか?」
 「むむむー」
 紅玉色の瞳がうるうる潤んでいた。唇の下に涙を堪えるときの皺ができている。
 「さあ、何の罪もないラスティーナを悲しませたのは、彼女のお父様お母様を悲しませたのは、一体誰だろう?」
 口を開くと泣いてしまいそうなティアは、こくこくと顎を頷かせ、自分の罪を肯定した。脇でここみいが軽く首を傾げているけれど、正門が陥落しつつある以上、もはや裏門に用はない。エムラブサレルは、ティアの肩にそっと己が手を落とした。
 「罰を受けるね、ティア・プリメ?」
 こっくり。
 堅固なように見えて実は意外と脆いティア・プリメ城は、こうしてあっさり陥落したのである。






2.らいじんぐ・さん・おん・にゅーいやーずでい。


 龍洗い。
 文字通り、龍の躯を奇麗にしてやるという仕事が、ティア&ここみいに与えられた罰であった。
 成龍化していないここみい程度であれば、手持ちブラシと中庭の噴水で事足りる。馬を洗ってやるのと大差無い感覚である。
 しかし、立派な成龍とあらば、そうはいかない。
 大人数人がかりの大仕事となるそれは、誰もがもっとも嫌がる年末の大行事であった。 龍洗いは、一年に一回というわけではない。ただ、年末は洗う度合が徹底されるのである。普通に身を清めるだけならば、龍を湖へ連れていき、数時間放してやればいい。それでは落ちない汚れを落とすのが年末の醍醐味であり、ゆえ、自ずと大仕事になる。




 デッキブラシやモップを抱えたティア・プリメは、とぼとぼ龍舎へ向かっていた。
 がっくり肩の落ちたその後ろ姿を、青龍がのしのしと追っている。布巾満載のバケツを、銜え、尻尾で洗剤入りの大瓶を巻いていた。器用に尻尾を上げて歩くさまは、落ち込んでいるように見えない。
 「…はあ」
 溜息と共にティアの肩が上下する。夕暮れの空に白い息がいかにも寒そうだった。
 エムラブサレルの乗龍レンディーンを洗うことに対するものではない。今頃は娘の帰りを待ち侘びている宮女ラスティーナの両親への溜息だった。父親は皇帝で遠い帝都に住まい、母親は幼い頃に失くしているという、性格とは趣の異なる境遇のティアにとって、家族は何より大事な事柄だったのである。
 申し訳なさ一杯のティアへ、ここみいが、ぐぐう、と注意を促した。念話を送る。
 ”ねえ、ティアちゃん”
 ”うう、何もゆーな、ここみい”
 ここみいは小走りにティアの横に並ぶ。長い首をねじ曲げ、ティアの顔を覗き込んだ。
 ”苦手だろうけど、よおく考えてごらんよ”
 一言おーい。と鼻面にぐーぱんち。ここみいはひるまず念話を続けた。
 ”ラスティーナって、本当に一年に一回しか帰ってなかった?”
 「む?」
 ぴたり、とティアの脚が止まる。
 ”どーゆーことだ?”
 ”だって、普通領宮で雇われている人たちって、春の種蒔きや、秋の収穫、夏祭りやなんかで、お休みをとったりしていなかったっけ?”
 「むむむ?」
 眉間に似合わない縦皺一本。
 ”そもそも、廊下の掃除ってラスティーナさん一人がするんだろうか? 宮女の四,五人もいれば、二刻程度で終わってしまうんじゃない? それだけでお家に帰れなくなるってこと、あるんだろうか?”
 「むむむむむむ」
 唸り声は、もう疑念ではない。明確な怒り。
 額に青筋が浮かんでいるのを目にしたここみいは、慌ててぐるんぐるん頭を振った。このままだと、爆発した怒りはもっとも近くにいる自分を直撃する、と知っているからである。そして怒ったティアちゃんときたら、一ヶ月絶食した龍ほどに危険なのだ、ここみい的には。
 ”え、ええと、で、でもエムラプさんの言う通りかもしれないよ、もしかすると”
 ”そんなこと、なーいっ!!”
 ここみいの下顎に迫り来る鉄拳。悲鳴のようにここみいは念話を発した。
 ”けどティアちゃんは納得したでしょっ! だったら従わなきゃ、ズルだよっ!”
 ぴたり。間一髪で停止する拳。ここみいの長い首筋を一筋の冷汗が伝い流れた。
 ”なんでだよ?”
 ”だって…”
 ティアちゃんを刺激して反射的にぶん殴られないよう、ここみいは慎重に拳から顎を遠去ける。ぐう。と溜息混じりに鳴いた。
 ”ティアリスさまが言ってたでしょ”
 ガデュレイクを建国した女雄の名前を出す。彼女はティアの名の由来であり、憧れでもあった。
 ”一度頷いたら、それがどんなに理不尽でもやり遂げなければならない、って”
 「……」
 ティアは応えない。おもむろに両腕を組んだ。口をへの字にしてここみいを見据える。
 ここみいにとっては地獄のような沈黙の数秒。
 いっそぶん殴られた方が精神衛生上よかったかもしれない。と仔龍が自分の行為を激しく後悔し始めた頃、彼の主がゆっくり口を開いた。
 ”…ここみい”
 ”な、なんだい?”
 びくびくとここみい。暫しの間をおいて、またもここみいの心臓を縮こまらせた後、ティア。
 ”……りふじん、ってどーいう意味? 誰かの奥さん?”
 ”………今ぼくが感じている感情のことだよ”
 ここみいはがっくり首を落としたのだった。



 赤龍レンディーン。
 ここみいの数倍、体長三十五尺はあろうかという成龍は、その威圧的な図体に反して、ティア・プリメ&ここみいに協力的だった。
 ここみいがせっせと運んできた井戸水を、桶ごと熱い鼻息で暖める。デッキブラシで背を擦るティアのために、なるべく体高が低くなるようべったり腹這いになった。洗い場代わりにレンディーンを誘導してきた中庭には、煌々と松明が灯り、日没の割には快適に作業ができる。元々こういう肉体労働が嫌いではないティアは、先程の不機嫌など何処へやら。鼻歌混じりに鱗を洗っていた。
 程良くお腹が空いた頃に、宮女が籐籠へ詰めた夕食など運んできたりすると、もうちょっとしたピクニック気分なのだ。
 「毎日こーゆーのでもいーねー」
 こんがり焼かれた鳥の足に囓りつきながら、ティア。磨き上げられたレンディーンのお腹にもたれていた。反対側の半面はまだ手もつけていない。このテンポだととても今夜中には終わらないはずなのだが、ティアは余裕の顔で食後のホットミルクなどを啜っていた。コップの底面が焦げたりしているのは、レンディーンの鼻息で暖めたせいだ。
 「ぐぐう?」
 そうかな? と、ここみいは首を傾げつつ、鶏の丸焼きを呑み込んだ。時間が時間ゆえ、寒さは呼気が白くなるほどだけれど、レンディーンの体温でそれほど感じない。むしろ運動で熱をもった身体にはちょうどよい気温に思われた。
 「そーだよ」
 ティアちゃんが飲み干したコップをここみいにくわえさせる。
 ”だって、そーしたら退屈な国語算数理科社会、やんなくていーんだよ?”
 カップを籐籠に仕舞いながら、ここみい。
 ”ぼくは、わりと好きだけどなあ。お勉強”
 ”あたしは嫌いなんだってば”
 勢い良く立ち上がる。立てかけてあったデッキブラシを手にした。
 ”でも、毎日お掃除だったら、しまいにはお掃除するところがなくなっちゃうよ?”
 バケツの柄を銜えたここみいへ、ティアちゃんは満面の笑顔を向ける。
 ”だいじょーぶ。そのころにはあたしたち、きっとぼーけんの旅に出てるもん”
 何処に根拠があるのかはわからなかったが、とにかく自信たっぷりの微笑み。つられてここみいも、長い牙をにかりと見せてしまう。
 ここみいは、そういうティアちゃんがとても好きなのだ。
 だがしかし。
 長閑さが持続したのは、それから数刻経過するまでだった。刻々と容赦なく時間は過ぎ去り、デッキブラシを握るティアの顔には疲労が色濃く浮かんでいる。バケツを銜え、水汲みに勤しむここみいの尻尾も力無く地面を擦っていた。
 じわじわと東空が茜色に染まり始めている。初日を見ようという人達で、城内もそろそろ目覚めつつあった。宮殿のそこここから微かなざわめきが聞こえてくる。
 程なく新たな年の夜明けが訪れようとしていた。
 ここみいの口からバケツをひったくる。両手でもって振りかぶり、勢い良く目前の鱗へ浴びせかける。バケツを放り捨てたティアへ、すかさずここみいが乾いた布巾を尻尾パス。
 「とりゃー!」
 よくわからない気合と共に、鱗の水気を拭う。
 「ぐうっ!」
 布巾もう一枚。水気のとれた鱗がぴかぴかに磨き上げられていく。滑らかな表面へ顔を近づけ、松明の写り込み具合を確認してから、ティアは額の汗を拭いた。
 「おしまいっ!」
 布巾を背後に放り投げる。ここみいが器用に空中で銜え止めた。心地良さそうに横たわっていたレンディーンが、己の長首を持ち上げ、出来具合を検分し始める。
 息を詰めて赤龍の点検を見守るティアとここみい。四つの瞳は、慣れない超過労働でしょぼしょぼしていた。汚れ放題の服や顔が、いかにも最後の力を振り絞ったという雰囲気である。
 確かにレンディーンは協力的であった。しかし、そのレンディーンでも自身のどでかい図体を小さくすることまではできなかったのだ。レンディーンじゃなくて、他のもっと気性の荒い龍だったらどうなっていただろう? なんてことを考える余裕すらない一人&一頭なので、今の仮定は何の慰めにもならないのだけれど。
 流石のティアも、これなら国語算数理科社会の方がましかな、などと思い始め、何も考えられなくなっているここみいが、だらりと長い舌を垂れ下げ、赤龍を眺めている。
 尻尾の先をすがつたがめつしていたレンディーンがゆっくりと一人と一頭へ鼻面を向けた。
 虚ろだったここみいの瞳が、生気を取り戻す。ティアの左肩へ大きな頭を乗っけた。
 ”合格だって、綺麗になったって。ティアちゃん!”
 レンディーンが、ここみいへ念話を送ったのである。
 ティアは両腕を上げて肩に乗ったここみいの頭を抱きしめる。一人&一頭の顔から、あっという間に疲労が失せ消えていった。
 ”年明けに間に合った!”
 満面の笑顔。
 ここみいはかき抱かれたまま首を持ち上げ、ティアを振り回した。振り回されながら、ティアも両脚をここみいの首に絡げる。くるりと背側へ体を回し、そのままここみいの背へ滑り降りた。左腕で首に掴まり、右手で前方を指し示す。
 ”行くぞここみい。初日の出だっ!”
 「ぐぐうっ!」
 ここみいの後脚が、抉る勢いで地面を蹴る。急加速で落ちないよう、ティアは慌てて長首にかじりついた。
 唐突に。
 その鼻先へ突き出される赤い尻尾。
 「ぐ、くぐうっ!?」
 ここみいは反射的に四脚を踏ん張って急制動をかける。そうなると、いくらティアがしっかり掴まっていても、慣性の法則に逆らえるはずもなく。
 ここみいの悲鳴を後にして、ティアは見事に宙を舞ったのであった。
 その軌道の先には、仕事をやり遂げた姪っ子を祝福すべくわざわざ早起きしたエムラブサレル後見人…。
 壮絶な轟音と想像される惨劇に、レンディーンとここみいは、思わず目を瞑ってしまったのである。



 エムラブは、濡らした手拭いを堅く絞り、自身の額へ当てる。
 正月用に設えた衣装が、土と水で新たにデコレートされていた。面前ではティアが両手で頭頂を押さえている。視線がちらちら東の空へ向いていた。膝が震えているのは、叔父の怒りに対する恐怖ではなく、地団駄踏みたいのを堪えているせいだ、とエムラブサレルは推測する。
 効果がないと知りつつ、精一杯厳めしい顔を作った。案の定反応はない。ティア・プリメの小さい脳味噌に、日の出を見る以外のことを考える余地はないようだった。
 溜息をつく。不安から喜びへと変化する姪っ子の表情を眺める、というささやかな楽しみを、放棄しなければならないのは少しばかり惜しかったが、仕方なかった。
 「ティア・プリメ」
 呼ばわる。いかにも上の空という風情でティアが顔をエムラブへ向けた。
 「我が乗龍レンディーンが、身体を洗ってくれた礼代わりにおまえを空の旅へ誘っておるが、どうする?」
 意識がこちらへ戻ってきたようだった。紅玉の瞳いっぱいに期待を現して、叔父の顔を覗き込む。
 「ここみいも?」
 「こ、ここ…」
 エムラブサレルは絶句した。龍は軍務もこなさなければならないゆえ、確かに攻城用の石を幾袋か積んで飛んだりもするにはするが、それでもここみいの体重よりは数段軽いだろう。無駄と知りつつ問おうとしたエムラブより先に、レンディーンの念話が届いた。
 ”ここみい程度なら、大丈夫ですよ”
 堪えきれない笑いを含んでいる。
 エムラブはティアへ向けて重々しく頷いてみせた。
 「やったーっ!」
 文字通り飛び上がって喜ぶと、ティアは一目散にここみいへ向かって駆け出した。
 ”…我が姪ながら、時々ついていけなくなる”
 自龍へ向けてこぼす。レンディーンは、ふ、と鼻で笑ってみせた。
 ”いえいえ、どう考えてもあなたの姪でしかあり得ない行動ですよ、エムラブサレル”
 レンディーンの応えに、エムラブサレルは渋面を向けただけであった。



 巨大な翼が空気を捉え、巨大な体躯を宙へ押し上げる。
 歓声をあげかけたティアは、巻きあがる土埃に噎せかえった。バランスを崩しかけ、慌ててここみいの首にしがみつく。
 ”ティアちゃん、気をつけないと。空なんだから”
 生意気な口を利くここみいの後頭部にぐーぱんちを食らわせると、ティアは目尻の涙を拭った。遠くなっていく地面に、息を呑む。
 レンディーンの背にここみいが跨り、ここみいの背にティアが跨るといった、傍目には珍妙な光景であったが、そんなことを構っている暇など無いくらい、ティアは興奮していた。なんと言っても空を飛ぶのだ。
 「うわーいっ!」
 懲りずに叫ぶ。土埃もだんだん高度を増すティアたちには追いつけないようで、透き通った少女の歓声が、朝の静寂を破って響いた。
 ”ティアちゃん、お日様の方へ向かうって、レンディーンが言ってるけど、いい?”
 ここみい。すっかり嬉しくなってしまっているティアは、訳もなくここみいの角をひっ掴んで揺すぶった。
 ”だ、だめなの?”
 ”そんなことない”
 ”じゃあ何で頭を揺するのさ”
 ぐ、ぐぐう。とここみいは文句を言うように低く鳴いた。ティアは全く聞いていない。頭をあちこち忙しなく動かして、過ぎる地面、遠くを流れる山々、何となく近くなった気のする雲やなんかを眺めている。
 「ぐうっ!」
 ここみいが少し大きい声で鳴いた。首をねじ曲げて、遠くなっていく城を不思議そうに眺めているティアの頭を鼻先でつつく。
 ”なんだよ?”
 鬱陶しそうに振り返ったティアの顔が、凍った。目と口がまんまるになる。
 「わっ、ふわぁーっ」
 柔らかい感嘆が、ティアの口から漏れる。ぐぐぐう。とここみいもハモった。
 森林と、連なる山脈。その彼方から、ゆっくりと、輝きが現れ始めていた。紫がかった雲が、その色味を徐々に朱く変えていく。ちらちら瞬いていた星々が恥ずかしげに姿を隠し、山脈の黒いシルエットと輝きとの境界線とが朧になる。
 世界を呑み込むように大きな太陽だった。
 黒から朱、そして緑へと見事なグラデーションを形作っている森林のあちこちから、鳥の群が飛び立ち、朱空にぽつぽつ黒点を拵える。きらきらちらちらするのは、朝露だろう。いや、もしかすると逃げ遅れて地面へ落ちた星達かもしれない。
 口から溢れて背後へ流れる吐息さえ、鮮やかな朱に染まっている。
 お日様がすっかり昇りきるまで、誰も、何も、言わなかった。



 日の出を見て満足した一行は、のんびりと城への帰路を辿っていた。
 ここみいは、始めて見る空中からの光景にすっかり気を取られてしまっている。
 ぐうぐう鳴きながら、首をあちこちへ巡らせる。ぐりぐり大きい目を動かして、時折ふんふん熱い鼻息を吹いた。見慣れたはずの風景が、ものすごく新鮮で珍しい。ちょっと風が冷たいけれど、この風景を見られる代価なら安いものだった。
 ”なあ、ここみい”
 不意に、ティア。首に回された両腕に力がこもる。
 ”なに?”
 お愛想に頭を持ち上げはするけれど、視線は眼下を過ぎる森林に釘付けの、ここみい。
 ”空を飛ぶだけで、こんなに楽しーのは、不思議だな”
 ”そうだね”
 ティアの手が角に伸ばされる。ぎゅっと掴まれて、無理矢理ティアの目前へ鼻面を向けさせられた。
 ”な、なに、ティアちゃん?”
 寒さに強ばる顔が、にんまりと白歯を見せる。
 ”空を飛ぶだけでこんなに楽しーんだよ?”
 ここみいは首を傾げる。
 ”そうだけど?”
 ティアは、ぱしぱしここみいの頭を叩いた。
 ”わかんない? 空を飛ぶだけで、よく見たところもこれだけ楽しくなるんなら、まだ見たこともないところって、どれだけ楽しーと思う?”
 元々まるいここみいの目がさらにさらにまるくなる。ぺろり、とティアの顔を嘗めた。
 ”そっか。見る位置を変えただけでこれだけすごいんだものね。本当に知らないところなら、きっと、もっと、楽しい”
 ティアの目が、上向きの曲線になる。ぺろり、とここみいの鼻面を嘗め返した。
 ”今年こそ、絶対、ぜぇーったいっ、ぼーけんの旅に出るぞ、ここみい!”
 ”そうだね、ティアちゃん!”
 そうして一人&一頭は、高らかな笑い声を明け空に響かせたのだった。
 マグジット・カレンがクルニト領へ赴任する少し前のおはなしである。



 なお、龍洗いで水浸しになったあと寒空を飛び回るという無謀な行動に出たティアちゃんとここみいが、大風邪をひき、半月ほど寝込んでしまったのは、言うまでもない。
 そうして、後見人のエムラブが「王女の健康を顧みなかった」と宮廷仕えの連中からちくちく苛められたことなどは、ま、蛇足であろう。



おしまい(笑)



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